―若手開発担当者向けクリティカルシンキング研修を実施して―
2026年3月、以前勤務していたアステラス製薬の若手開発担当者を対象に、クリティカルシンキングをテーマとした研修を実施する機会をいただきました。
研修のタイトルは、
「開発担当者が習得すべきクリティカルシンキングの習得とチェックリストからの脱却
―ICH E6(R3)の思考フレームの理解と、チェックリストに頼らないアプローチ―」
です。
私は1985年に山之内製薬へ入社し、動物用医薬品の開発からキャリアをスタートしました。その後、ライセンス部門、人体薬の臨床開発、開発本部・研究本部のプロジェクトマネジメントなどを経験し、2019年にアステラス製薬を定年退職しました。
そのため、今回の研修には少し特別な思いがありました。
かつて自分が働いていた会社で、これから医薬品開発を担っていく若い人たちに、今度は外部講師という立場から、自分が長年の仕事を通じて学んできたことを伝える。
そこで私が最も伝えたかったのは、知識の量でも、SOPの覚え方でもありません。
「なぜ、それをするのか?」と考える習慣です。
正しく手順を守るだけでは足りない時代になった
医薬品開発の仕事では、GCP、SOP、各種ガイドライン、マニュアル、チェックリストなど、数多くのルールに囲まれて仕事をします。
もちろん、それらを守ることは非常に重要です。
しかし、ルールを正確に守ることと、良い臨床試験を行うことは、必ずしも同じではありません。
チェックリストにすべてチェックがついていても、被験者の安全性に関わる本質的な問題を見落としていれば、臨床試験としての品質は高いとは言えません。
逆に、形式的には小さな逸脱があったとしても、それが被験者の安全性や主要評価項目、データの信頼性にほとんど影響しないのであれば、そこに過剰な時間や人員を投入することが本当に適切でしょうか。
今回の研修資料では、従来の発想とICH E6(R3)で求められる発想を対比しました。
従来は、
「手順に沿ってやることが正しい」
「SOPを守っていれば問題ない」
「すべての項目を漏れなく確認する」
という考え方が強くありました。
それに対して、これからより重要になるのは、
「なぜ、この手順があるのか」
「本当に重要なリスクは何なのか」
「限られたリソースをどこに集中させるべきなのか」
と考えることです。
つまり、手順を軽視するのではありません。
手順の背後にある目的まで考える。
これこそが、今回の研修で伝えたかった「チェックリストからの脱却」です。
クリティカルシンキングとは「否定すること」ではない
「クリティカル」という言葉から、
「人の意見を批判する」
「欠点を探す」
「反論する」
といった印象を持つ人もいるかもしれません。
しかし、私が研修で伝えたクリティカルシンキングは、そのような意味ではありません。
資料では、
「建設的に疑うこと」
と表現しました。
与えられた情報をそのまま受け入れるのではなく、多角的な視点から見直し、前提そのものが正しいのかを考えることです。
例えば、長年仕事をしていると知識と経験が蓄積されます。
これは大きな強みです。
一方で、
「今までこうやってきた」
「通常はこうする」
「この疾患ならこう考える」
「この部署ではこう処理する」
という経験が、逆に新しい発想を妨げることがあります。
そこで研修の冒頭では、錯視の例も使いました。
人間は、自分では正しく見ているつもりでも、実際には脳によって容易に判断を歪められます。
知識も同じです。
知識は武器になりますが、過去の知識に頼り過ぎれば「思考しないための道具」にもなります。
VUCAと呼ばれる、変動性、不確実性、複雑性、曖昧性の高い時代では、過去の正解がそのまま未来の正解になるとは限りません。
だからこそ、時には一度ゼロベースに戻り、
「本当にそうなのだろうか?」
と問い直す必要があります。
同じ情報でも、部署が変われば見える世界が変わる
今回の研修で大切にしたもう一つのテーマが、多面的に見ることです。
研修では、
鳥の眼=俯瞰して見る
昆虫の眼=複眼で見る
魚の眼=流れを見る
という三つの眼を紹介しました。
開発業務では、一つの情報に対する受け止め方が、部署によって大きく違います。
例えば、非臨床試験で中枢毒性を疑わせる所見が得られたとします。
CMC担当者であれば、
「治験薬製造への影響はないか」
と考えるかもしれません。
臨床開発担当者であれば、
「プロトコール変更が必要か」
「当局への報告が必要か」
「臨床試験のスケジュールに影響しないか」
と考えるでしょう。
マーケティング部門なら、
「他剤との差別化に影響しないか」
経営層なら、
「事業価値や開発優先順位にどう影響するのか」
を見るかもしれません。
同じ情報を見ていても、立場によって「重要なこと」が違うのです。
若い時ほど、自分の担当業務を確実に遂行することに意識が向きます。
それ自体は当然です。
しかし、キャリアを重ねていくにつれ、
「自分の仕事から相手を見る」のではなく、「相手の立場から自分の仕事を見る」
ことが必要になります。
今回のアンケートでも、印象に残ったこととして、
「同じ問題でも立場によって解釈が異なること」
「表面的な情報や狭い視野に縛られず、多角的な視点や流れを見ることが重要だった」
といった趣旨の回答がありました。
これは、私が今回伝えたかったことが受講者に届いたと感じた部分でした。
なぜ、あなたの依頼は後回しにされるのか
さらに今回は、医薬品開発の技術論だけでなく、行動経済学の視点も取り入れました。
開発プロジェクトは、自分一人では進みません。
他部署、医療機関、治験責任医師、CRO、各種ベンダーなど、多くの人の協力によって成り立っています。
ところが、誰もが忙しい。
当然、相手には相手の優先順位があります。
そこで考えてほしいのが、
「なぜ、相手が私の仕事を優先しなければならないのか?」
という問いです。
研修では、社会的交換、互恵性、内集団バイアスなどを例として取り上げました。
単に、
「急いでください」
「こちらの締切が迫っています」
と伝えるだけでは、それは依頼者側の事情です。
相手にとって、
「この依頼をやる意味は何なのか」
「自分たちにどんな価値があるのか」
が分かれば、優先順位は変わる可能性があります。
アンケートでも、この部分は非常に印象に残ったようです。
「依頼する際に、優先度を上げてもらうための工夫」
「相手にとって有益な提案をすることが大切」
という趣旨の回答が寄せられました。
さらに、具体的な活用場面として、
「他部署や施設への業務依頼」
「医療機関との交渉」
「施設へ依頼するとき」
などが挙げられました。
クリティカルシンキングというと、机の上で難しい問題を考える技術のように感じるかもしれません。
しかし実際には、このような日常的なコミュニケーションの中でも使える思考法なのです。
「CMCの問題」を「自分の問題」に変える
研修では、CMC担当者から、
「製剤のばらつきをさらに検討したい」
と開発担当者へ提案された場面も考えてもらいました。
忙しい開発担当者からすれば、
「そこまで自分が関わる必要があるのか」
と思うかもしれません。
そこで視点を変えます。
製剤のばらつきが小さくなれば、臨床試験で観察されるデータのばらつきにも影響する可能性があります。
研修資料では理解を促すための試算として、標準偏差が30から27へ10%低下した場合、必要症例数が約225例から約182例へ減少する例を提示しました。
約43例の違いです。
そこから、被験者募集期間、臨床試験コスト、開発期間などへ影響が広がっていく可能性があります。
すると、
「CMCがやりたい検討」
だったものが、
「自分たちの臨床試験を効率化できるかもしれない検討」
へと意味が変わります。
人を動かすには、正しいことを説明するだけでは不十分です。
相手の眼で、その価値を伝えなければなりません。
部分最適から全体最適へ
若手のCRAほど、
「担当施設を完璧にしたい」
という気持ちを持つのではないでしょうか。
Queryをゼロにする。
逸脱をなくす。
すべての項目を漏れなく確認する。
もちろん大切な姿勢です。
しかし、それが試験全体にとって最適とは限りません。
今回の研修では、
全項目を100%確認することよりも、CTQを意識すること。
自施設だけを完璧にすることよりも、施設間のリスクを比較してリソースを振り分けること。
逸脱をすべて同じように扱うのではなく、
「その逸脱が、臨床試験に参加した患者の安全性や、試験結果の信頼性にどの程度影響するのか」
を考えることを取り上げました。
なぜ人は形式的な完全性を求めてしまうのでしょうか。
行動経済学的に考えれば、
「監査で指摘されたくない」
「上司から注意されたくない」
という損失回避も一因になります。
また、人は「目に見えている問題」に注意を奪われやすい傾向があります。例えば、Queryや未解決事項のように、対応すべきことが明確に見える課題には意識が向きやすい一方で、主要評価項目の一貫性の崩れなど、目立ちにくいものの、治験全体の品質により大きく影響する問題を見逃してしまうことがあります。
ここでも必要なのは、
「目の前に見えている問題を処理する」
ことだけではなく、
「本当に重要な問題は何か」
と問い直す力です。
アンケートから見えた「思考の変化」
研修後のアンケートを読んで、特に嬉しく感じたことがあります。
最も重要だと思う考え方を尋ねた質問では、回答者が共通して、
「本質的リスクを見極めること」
を選択していました。
これは、今回の研修の核心そのものです。
また、研修前後で、
「チェックリストを重視するか、本質的リスクを重視するか」
を尋ねたところ、もともとリスク思考を持っていた人もいましたが、研修後にチェックリスト側からリスク思考側へ考え方が動いた回答も確認できました。
行動についても、
「明日から意識して行動を変える」
「機会があれば実践したい」
という回答が見られました。
自由記載には、
「自身でGCPの解釈が求められる場面で活かせる」
「目の前の業務に集中するあまり、その先や相手のことを考える余裕がなくなった時に、一度俯瞰して見直したい」
といった趣旨の言葉もありました。
私は研修の評価で本当に重要なのは、
「面白かった」
と言ってもらうことだけではないと思っています。
研修が終わった翌日、仕事に戻ったときに、
「昨日だったら、そのまま処理していた。でも今日は一度考えてみよう」
という瞬間が一度でも生まれること。
そこから研修の価値が始まるのではないでしょうか。
「答えを教える研修」から「問いを持ち帰る研修」へ
若い担当者には、まず正確な知識を身につけることが必要です。
しかし、その先には、
「正解を知っている人」
ではなく、
「正解がない状況でも考えられる人」
になることが求められます。
新薬開発は、正解があらかじめ書かれている仕事ではありません。
予想しなかった安全性情報が出る。
症例登録が進まない。
当局の考え方が変わる。
他部署との意見が一致しない。
海外チームと日本側の事情が噛み合わない。
そのたびに、
「SOPには何と書いてあるか」
を確認するだけでは答えが出ない問題に直面します。
そんな時に必要なのが、
「そもそも何を達成しようとしているのか」
「最も大きなリスクは何か」
「誰の視点が抜けているのか」
「自分が前提としていることは、本当に正しいのか」
という問いです。
今回の研修の最後には、規制環境の変化を、
「遵守中心」から「目的適合型の品質確保」へのシフト
として整理しました。
しかし、これはGCPだけの話ではないと思っています。
仕事そのものが、
「言われた通り正確に行う力」から、「目的を理解して自分で考える力」へ
変化しているのではないでしょうか。
かつて自分が働いた会社で、これからの医薬品開発を担う若い人たちと、このテーマについて一緒に考えられたことを、とても嬉しく感じています。
私が何十年もの医薬品開発の経験から伝えたいことは、決して、
「経験者の答えを覚えてください」
ということではありません。
むしろ逆です。
私の答えさえ、疑ってほしい。
そして、
「なぜ?」
「本当に?」
「他の見方はないか?」
「そもそもの目的は何か?」
と考え続けてほしい。
その習慣こそが、変化の激しい医薬品開発の世界で、自ら判断し、周囲を巻き込み、新しい道をつくる力になると考えています。
膳Laboつくば株式会社では、今後も医薬品開発の専門知識だけでなく、プロジェクトマネジメント、クリティカルシンキング、行動経済学などを組み合わせ、実務の中で「考える力」を高める研修を提供していきたいと思います。