―研修講師を務めて改めて考えた「日本人第Ⅰ相試験」と開発の全体最適―
2026年7月16日、製薬企業向け研修「国際共同治験の効率化と実施におけるトラブル事例/対策」で講師を務めました。
現在、新薬開発では、複数国が同一のプロトコールのもとで同時並行的に患者を組み入れる国際共同治験が主流となっています。その背景には、症例集積の迅速化、開発期間の短縮、国際競争力のあるデータ取得、そして各国への承認申請の効率化があります。
一方で日本には、日本人PKデータ、日本語資料の作成、IRBや契約手続き、医療制度、添付文書を重視する文化など、海外とは異なる実務環境があります。
今回重視したのは「日本がなぜグローバル開発で後手にも回りやすいのか」を、受講者といっしょに考えることでした。
単に国際共同治験(Global Clinical Trial:GCT)の仕組みや規制について解説するのではなく、
「日本特有の手順や文化が本当に必要なのか」
「逆に、Global側は日本の医療制度をどこまで理解しているのか」
その“ズレ”を一つずつ紐解いていきました。
「ドラッグラグ」から「ドラッグロス」へ
かつて日本で大きな問題となっていたのは、欧米で承認されている薬が、日本では数年遅れて承認される「ドラッグラグ」でした。
しかし現在、より深刻になっているのは「ドラッグロス」です。
つまり、海外では使える新薬が日本では「遅れてくる」のではなく、そもそも日本で開発されない可能性があるという深刻な問題です。
国際共同治験では、世界の患者登録は日本を待ってくれません。
日本の準備が遅れれば、他国で症例が埋まり、日本が最初から開発計画に入らない可能性もあります。
ドラッグロスは、企業の問題ではなく日本の患者さんが新しい治療にアクセスできないという問題なのです。
研修で特に議論した「日本人第Ⅰ相試験」
今回の研修で一つの重要なテーマにしたのが、日本人の第Ⅰ相試験です。
日本人第Ⅰ相試験は「やる・やらない」ではなく、品目ごとに“何が本当にCriticalか”で判断する時代になったのです。
日本は民族差を重視してきましたが、 Global側から見れば「なぜ日本だけ別試験が必要なのか」という疑問が生じます。
合理的な安全性確認が、別の視点から見れば 日本の参加を遅らせる“壁”になることがあります。
研修後、改めて確認して見えてきた変化
研修後、規制当局経験者や企業の臨床開発・薬事担当者に改めて確認し、 関連通知を読み直したところ、日本人第Ⅰ相試験に関する考え方が 以前より大きく変化していることを再認識しました。
現在は、
利用可能な海外データや非臨床情報から日本人の安全性・忍容性を説明できる場合、独立した日本人第Ⅰ相試験を必須としない方向へ制度が動いています。
これは「日本人データが不要になった」という意味ではありません。
“どこで、どのタイミングで確認するか”が柔軟になったということです。
私はこの点を整理し、研修後に受講者へ補足資料としてお伝えしました。
正しいと思っていた手順が、今も正しいとは限らない。
CTQ(Critical to Quality)の視点
「全員に同じ試験」から「何が本当にCriticalなのか」へ
この変化は、私が講義で強調したCTQ(Critical to Quality)的な考え方ともつながります。
治験の遅れは“全部を安全側に管理すること”から生まれるので、重要なのは何が本当にCriticalかを見極めることです。
Safety、Clinical、Regulatory、Commercial─
どの部門も自分の正しさを持っています。
しかし、それぞれが自分の領域だけを最適化すると、
プロジェクト全体が止まることがあります。
PMに必要なのは、
「誰が正しいか」ではなく「開発全体として何を優先するか」となってくるのです。
TPPも「作る資料」ではなく「意思決定の道具」
今回の研修では、TPP(Target Product Profile)についても時間を割きました。
TPPは将来の製品像を言語化し、Clinical、Safety、Regulatory、Commercialなど異なる部門が共通のゴールを持つための道具です。
TPPは資料ではなく、部門の価値観を揃え、意思決定の軸をつくる“未来の添付文書”です。
私はTPPを、「未来の添付文書を仮置きする場所」と捉えると非常に分かりやすいと考えています。
例えば腎機能低下患者で血中濃度が上昇する可能性が出てきたとします。
それを単なるPK上の知見として終わらせるのではありません。
将来、
用量調整が必要になるのか。
注意喚起で対応できるのか。
対象患者が制限されるのか。
添付文書にどのように記載されるのか。
その結果、医師や薬剤師にとって使いやすい薬になるのか。
市場規模にどう影響するのか。
そこまで考えることによって、初めて一つのデータが「開発戦略」につながります。
研修資料でも、TPPを将来の製品像、部門間の共通言語、意思決定の軸として位置付け、「ズレを早期に露呈させるツール」として取り上げました。
さらに日本人データに関する環境は変化している
今回、研修後の補足資料をまとめる中でもう一つ強く感じたのは、日本の規制当局がドラッグロスを意識し、海外データを活用する方向に制度を動かしていることです。
「承認前にすべての不確実性をゼロにする」から
「何を承認前に確認し、何を承認後に確認するのか」
へと変化しつつあるのではないでしょうか。
もちろん、安全性を犠牲にして早く承認すればよいという話ではありません。
重要なのは、患者アクセスを遅らせることによるリスクも含めて考えることです。
アンケートから見えた、次回への課題
今回の研修後に実施したアンケートでは、セミナー内容、オンラインでの受講環境、内容レベル、講師について、全体として高い評価をいただきました。
特に、セミナー内容については「とても満足」「概ね満足」との回答が中心で、オンラインでの受講環境や内容レベルについても、おおむね良好な評価をいただきました。講師についても、肯定的な評価をいただくことができました。
「ありがとうございました。大変勉強になりました」
とのコメントもいただき、一定の評価をいただけたことには安堵しています。
しかし、私自身がより注目したのは、「さらに深く扱ってほしい内容」への回答でした。
そこには、
「トラブル事例への解決方法案が少しでもあればさらに良い」
「臨床開発担当者で発生する特有のコミュニケーションギャップの話をもう少し聞きたかった」
「国際共同治験で起こるトラブルについて、より具体的な事例を用いて説明してほしかった」
という意見がありました。
これは非常に重要なフィードバックです。
今回の講義の中でも、多国籍、多部門、多制度、多文化で動くGCTでは、同じ言葉を使っていても前提が一致しているとは限らず、PMは単なる「進捗管理者」ではなく「全体最適化役」であるという点を強調しました。
しかし受講者が求めているのは、その一段先なのでしょう。
「違いがあります」
だけではなく、
「では、その場面であなたならどうするのか」
です。
例えば、
Globalから「Urgent」とメールが来た。
日本側は今日中に対応しなければならないと思った。
しかしGlobal担当者は「数日以内」という意味で使っていた。
あるいは、日本側Safetyが安全性確認を追加したいと言い、Clinicalは患者登録への影響を懸念し、RegulatoryはPMDA相談を求める。
その時、PMは誰と、どの順番で、何を確認し、どこで意思決定するのか。
こうした具体的なケースを提示し、
「あなたならどうしますか?」
と考えてもらったうえで、私自身の経験に基づく対応例を提示する。
次回は、そのような構成をさらに増やしていきたいと思っています。
研修を終えて――講師自身も「アンラーニング」する
今回、研修後にPMDA関係者へ改めて確認し、日本人第Ⅰ相試験について補足資料をお送りしたことは、私自身にとっても大きな学びになりました。
実は今回の講義の冒頭では、ミュラー・リヤー錯視を使いながら「私たちは、自分が正しいと思っているものを、本当に疑えているだろうか」という話をしました。
そして、既存知識に頼りすぎることによる思考停止を防ぐため、「アンラーニング」の重要性を取り上げました。
これは受講者だけの課題ではありません。
講師自身にも当てはまります。
過去には正しかった知識。
かつてのPMDA対応。
自分自身の成功体験。
それらを「今も正しい」と無意識に考えてしまえば、変化する規制環境についていけなくなります。
今回、日本人第Ⅰ相試験について講義後にもう一度確認し、必要な部分を補足したこと自体が、私にとってのアンラーニングだったのかもしれません。
国際共同治験を取り巻く環境は、今後も変わり続けます。
だからこそ開発担当者に必要なのは、通知を覚えることだけではありません。
「なぜ、この試験が必要なのか」
「何が本当にCriticalなのか」
「この判断は患者アクセスを含めた全体最適になっているのか」
と問い続けることではないでしょうか。
日本人第Ⅰ相試験を「やるか、やらないか」。
日本をPhase IIから入れるか、Phase IIIから入れるか。
PMDA相談をいつ行うか。
スピードと承認確実性のどちらを優先するか。
研修のケーススタディでも、まさにこうした問いを設定しました。
正解が一つに決まっているわけではありません。
だからこそ、新薬開発では「手順を守る力」だけでなく、「問いを立て、異なる立場から考え、全体として最も合理的な意思決定をする力」がますます重要になっていると感じています。
今回いただいたアンケートの声も踏まえ、今後の研修では、国際共同治験で実際に起こり得るトラブルをより具体化し、「何が問題だったのか」だけでなく、「その時、どう考え、どう動くのか」まで受講者の皆さんと考える機会を増やしていきたいと思います。
国際共同治験の成功とは、日本だけが予定どおり治験を終えることではありません。
Global全体として開発を成功させ、その成果をできるだけ早く患者さんへ届けること。
そのために、日本として何を守り、何を変えるべきなのか。
これからも実務と制度の変化を追いながら、皆さんと考えていきたいと思います。